新百姓宣言

なぜ人は生まれてきたのか?

 

この問いに、わたしたちは、「つくる」を楽しむため、と応えます。

世界中を旅して、いろんな宗教、文化、風土で暮らす人々と出会ってきました。

旅のなか、どこにいっても変わらないことが一つだけありました。

それは「つくる」に熱中する人の、楽しそうな横顔。

料理をつくる、椅子をつくる。
音楽をつくる、祭りをつくる。

たとえどんなに貧しくても、「つくる」に熱中する人は楽しそうでした。


たとえどんなに些細でも、「つくる」を大切にする人は幸せそうでした。

だから、わたしたちは「なぜ人は生まれてきたのか?」という問いに、「つくる」を思いっきり楽しむため、と応えたいのです。

秋田の朝ごはん

「つくる」には、いろんな段階があります。


料理や椅子のように、形あるものを造形する段階。

「どんな絵を描こうか」と、形ないものを想像する段階。

満月を見て「不吉だ」と考えたり「恵みだ」と考えたり、出来事の意味をつくりだす段階。

「つくる」にいろんな段階があると知ると、どんなときでも「つくる」を楽しめるようになります。

「そんなこと言ったって、つくるって簡単じゃないよ。」


その気持ちも、よくわかります。
わたしたちだって、思い通りにつくれたことはありません。

慎重に造った椅子はガタガタ。
丁寧に縫った服はペラペラ。

あ〜ほんとうに、イヤになる。

けど、それがいい。そう思いませんか?

もし簡単に欲しいものが手に入るなら、
「つくる喜び」は生まれるでしょうか。

簡単にはできない。何度やっても失敗する。

「つくる」って、ほんとうに難しい。
でも、だからこそ、「つくる」って面白い。

 
 

近代以降、世界を「機械のようなもの」とする見方が広がりました。

世界が機械であれば、正しく操作すれば望む結果が得られるはず。

そんな見方でつくられた社会では、不正確だったり、効率が悪い部品は「役立たず」や「落ちこぼれ」とされます。

だからこれまでの学校教育は、人間が社会という巨大な機械のなかで正確に、効率よく働けるよう、訓練することに躍起でした。

その結果、経済は発展し、社会は巨大で安定したものとなりました。

しかし、その一方で、人間はどうなったでしょうか?

自分が食べるもの、着るもの、住む家を、自分の手でつくることができなくなった。

生きるのに欠かせない飲み水すら、お金で買うしかない。

だから社会システムに、ますます依存するしかない。

 

いまやわたしたちは、人類が当たり前のようにもっていた「つくる知恵」「つくる喜び」を、手放しつつあるのではないでしょうか。

 

「機械のような世界」で崇拝された価値基準が、「お金が一番大事」とする資本主義です。

その見方で結果だけを重視していると、
「つくる喜び」は失われます。

 

どんなに大切な営みでも、「お金」にならなければ「失敗」になるし、経済的な価値を生み出せない人は、「役立たず」として追いやられます。

 

だけどもし、「お金が一番大事」というこれまでの「見方」を、「つくる喜びが一番大事」という新しい「見方」に変えたら、どうなるでしょう?

たとえば、「失敗」は「つくる喜び」の欠かせないスパイスになります。

「役立たず」はまだ「つくる力」を活かしきれていないだけの伸びしろになります。

わたしたちが、ただ見方を変えさえすれば、
目の前の世界は、ガラリとその姿を変えるはずです。

この地球に暮らすだれもが、「つくる喜び」を安心して楽しめる社会。

 

それを実現するのに十分な食料とエネルギーをつくり出す知恵を、人類はすでに持っています。

 

なのに、どうしてそうならないのでしょう?

 

それは、システムが「物語」を操作しているからではないでしょうか。

 

特に、「この世界は不足し、奪い合うしかない」とする物語。


そんな物語を刷り込まれると、すでに十分に豊かでも、人は不安になります。

その不安を解消するために、与えることよりも独占することを選び、
つくる喜びよりも、他者に勝つことを選びます。

 

その結果、人と人の信頼関係は分断され、ますます不安が拡大。


不安定な自然よりも、機械的だけど安定したシステムに依存するようになります。

 

システムは、さまざまなメディアを通じて、
刷り込む物語を操作することで、わたしたちを支配しているのです。

もちろん、これまでの「資本主義」や「国民国家」といった社会システムは、悪ではありません。

それらも、先人たちが「大切な人に幸せになってほしい」と願いながらつくった仕組みでした。

とくに資本主義の働きによって、一部の人に巨大な富が集中し、彼らが労働から解放され、「つくる」に熱中できたことで、人類の文明は飛躍的に発展してきました。

その結果もたらされたエネルギー革命によって、人類は凍えることがなくなり、農業革命によって、十分な食料をつくりだせるようになりました。

ほんの100年前とくらべても、人類は劇的に豊かになりました。

にもかかわらず、わたしたちの「ものの見方」は、いまだに「不足し、奪い合うしかない世界」を前提としたまま。

だからこそ、わたしたちは「溢れるほど豊かで、つくるを楽しむための世界」という新しい見方で、新しい物語を紡いでいきたいのです。

これまで「百姓」は、「不足し、奪い合うしかない世界」で弱者として扱われてきました。

しかし、「溢れるほど豊かで、つくるを楽しむための世界」という見方に変えると、自らの手で衣食住をつくり出せる「百姓」は、「創造のマエストロ」へと変わります。

新しい時代の「百姓」というスタイルは、
生きるために仕方なく選ぶものではなく、
「つくる」が楽しいから選ぶものになります。

そんな新時代の百姓たちは、生かされているという感謝とともに、雄大な自然との調和を楽しみます。

最先端のテクノロジーも、まるでナイフのように学び、扱おうとします。

先人が探究してきた科学や芸術、その最先端の問いも面白がって探究します。

巨大で複雑な社会システムも、まるでゲームのように遊び倒します。

新しい時代の「百姓」という生き方、それは「つくる喜び」に満ち溢れた、未来の生き方です。

新時代の百姓は、分け合うことで、「喜び」が大きくなることを知っています。

だから、バンドを組んだり、稲を育てたり、祭りを興したり。誰かとともに「つくる」営みを大切にします。

 

また、彼らは独占に興味がありません。


なぜなら、必要なものは、自分の手でつくり出せるから。

 

そんな新時代の百姓の前では、現在の私有財産を前提にした資本主義も生まれ変わります。

能力主義の教育システムや、国民国家という統治のシステムすら、その役目を終えるのです。

 絵空事でしょうか? 

 

いいえ、違います。

 

山奥の田んぼで、

リノベされた喫茶店で、

アーティストのアトリエで、

起業家のラボで。

そんな未来は、すでにあちこちで出現しています。
 
すべては、わたしたちが「つくる喜びを大切にする」と決めることから始まります。

 

この地球に生まれるだれもが「つくる喜び」に満たされた日々を送る。


そんな新しい時代の百姓、「新百姓」に、わたしたちはなります。

できることなら、あなたとともに。

 

 

2022年11月24日 

『新百姓』編集長 おぼけん